ND児をその子のペースで育てようとすると、必ず遭遇する批判が
『母親が過干渉で、子供の主体性を奪っている』
というものです。
私もずいぶん悩みました。
嵐を抜けた今振り返ると、アドバイスする方とされる方の『前提となる背景事実』の認識がそもそも噛み合っていないです。
多数で発信する情報で、個々の事情は汲めないので(汲むと何も言えなくなっちゃうところもあるので)、「1:多だから仕方ないね」とスルーを推奨します。
子どもが経験して乗り越えるべき失敗と親が防ぐべき失敗の境界線
子どもが経験して乗り越えるべき失敗と親が防ぐべき失敗の線引きは、その子によって異なります。
人間みな個性がありますし、ND児の場合は特にまだ「生のまま」の状態なので、物事に対する反応の個人差がすごく大きい。全く違う話になっちゃうレベルに違います。
例えば「ゲームに3連続で負けた」場合
①「A君ばっかり勝ってずるい!」と地団駄踏むけど、お菓子渡すとすぐ忘れる
②どうしたら勝てるか考えて黙りこむ
③「フェアなはずのゲームの仕組みがここまで自分に不利なのは、自分に生きる価値がないってことだ。死にたい。」と頭から血が出るほど壁に打ち付ける
というように、3人の反応は全く違います。
「ゲームで3連続負ける」は、一般的に言えば、経験させるべきマイナーな失敗の方に入りますよね。①②の子にとっては、経験すべき失敗と言えます。
でも、③の子にとっては、どうでしょうか? その子が壁に頭打ち付けて血を出してる状況でも「過干渉になるから、手を貸すべきではない」というのが正しいと思いますか?
私は思いません。放っておけばそのうち楽々乗り越えられるようになるという類のものではなく、実際なりません。
葛藤を抱えている要素を、極限までスモールステップに区切って、少しずつ少しずつ乗り越えていく、という大人の工夫が必要です。
背景事実の認識のずれ
家の中で起こりがちなそうした状況は、診察や相談支援の現場で再現されることは稀です。子供も「ちょっと外面」になりますし、子供を連れていかれないケースも多いからです。
だから、親の口頭説明をベースにアセスメント(現状査定)をするわけですが
「ゲームで3回負けて悔しくて、壁に頭を打ち付けてしまっていました」
と落ち着いてる大人(親)から静かな部屋で口頭説明を聞くのと、
「現実に、目の前で泣き叫んで壁に頭を打ち付けて血が出ている子供の姿を見ながら数十分過ごす」リアリティは全く違います。
しかもその間も、他の事実(生活/兄弟児の世話等)も同時に動いており、1日24時間の間にこれくらいのエピソードが数回〜数十回起こってます。
保護者は文豪ではない
『金閣寺』を本で読むのと、現実に目の前で金閣寺がボーボー燃えているところにいるのとは、全く違いますよね。
三島由紀夫レベルの表現力で2〜3割伝わってるかどうか位ですから、保護者の口頭説明は1%くらいしか伝わらなくて当たり前です。
医師/支援者に同居してもらうわけにもいかないわけなので、これはもう構造上仕方がないことだと思いますが、
保護者の説明で、自分が今認識した事実は、現実のインパクトの1%
という前提認識が共有されている方が効果的な支援になると思います。
親がまずいと思うものは、今は避けるべき失敗
現実と事後説明の間には大きなずれがあり、現実を見ているのは親だけです。
だから、親が本能的に「これはまずい」と思うものは、今は避けるべき失敗。
その前提で「どうやって細かく刻んでいくか?」「子供の受け取り力を高める医療介入で適切なものはなんだろう?」こういう課題解決案を話し合えるのが一番いいと思います。
一番大事にすべきは親のメンタルキャパ
現実を100%伝達するのは構造上不可能なのだから、「冷静に俯瞰できる親のキャパ」が命綱です。
「親が、伝わらないから一生懸命伝えようとしている」「同じような話を繰り返している」ということは、「親のキャパ不足」を示しているので、
「何が親のキャパを削っているか、どうやったらキャパを上げることができるか」
という視点で現実を整えていくのが、最優先で最も効率の良い支援だと思います。
見極めはエネルギーを要する感情労働
「その子の今の状況を見極める」のは感情労働です。
感情労働は肉体労働よりもエネルギーを使うけれど、見えない人には見えない。
「見て考える」という物的移動のない行動だからです。
物的移動しか見えない人(見えないこと自体は仕方ないですから悪くないです)は、正しい姿勢を選んでいただきたいと思います。
「攻撃」は不毛な最悪手。
自分に返ってきますから、やめましょう!
人の育児を上から目線で批判する他人様は、「どちら様でしたっけ?」
なぜ人の育児を上から目線で批判するという「余計なお世話」が、こんなにも許容されて人口の多数を占めているのか? このような状況は、私にはさっぱり理解できません。
いつからこうなったのか、私にはその転換点が認識できませんでした。
部外者としての自分棚上げ批判は、言う人が抱えている問題の投影以外の何ものでもないので、
何か言いたくなったら「図らずも自分の恥部を晒しちゃうかもしれない」って警戒して離れた方がいいし(恥ずかしいから)
言われたら「どちら様か存じ上げませんが、私に興味もっていただきまして、どうもありがとうございます。私へのお仕事のご依頼でしたら、DMかメールでお願いします♪」
って感じで、スルーするのがいいかなと思いますね。
本当に助けてあげたい場合にすることは3択
- 手を貸す or お金出す(『手』の代わり)
- 具体的な解決策の提示(受け取る方が受け取りやすい形で)
- 「子にやってあげたほうがいいのにな」と思うことは、自分で黙ってやる。
これ以外のことは、構造上ないです。3択です。
もし「良かれ」という思いで、これ以外のことをやっていたら、「私、余計なお世話だったな」って認識して、口笛吹きながら誤魔化して、気づかれないうちにやめましょう。