不登校の理由は、とても複合的です。
私は、不登校はじめ「なぜ?どうして?どうしたら?」と原因究明にずっと奔走していました。とても苦しい時期でした。
今お子さんと会話をしづらい状況で、「何が何だかわからない」と困惑している方、多くいらっしゃると思います(私もそうでした)
お子さんの中には、もしかして息子と同じ感覚を持つ子もいるかもしれませんので、何かのご参考になればと記録することにしました。
今や不登校歴1年(五月雨登校の時期も不登校に含めてます)? 基本的にハッピーです。
辛い時期を経て分かったことは、不登校の理由は複合的で、これ1つという原因はないので、原因を究明することにはあまり意味がないということです、
親としてやるべきことは、なんとなく幸せな環境づくり。
これにつきます。
本人が語るものも理由の一つではあり、語れる状態になることには、とても大きな意味があります。語り始めたら、環境づくりが良い感じだので、このまま続けようという指標になります。
語る理由に耳を傾け、観察して、現状把握やそれに対応する真摯な姿勢を見せることは大事ですが、それありき一本ありきで突っ走らず、全体をふんわり理解して環境を作ろうとすることが親の心構えとしてとても大切なことかなと思っています。
今まで聞いていた不登校の理由
これまで「どうして学校に行きたくないのか」については、親子の会話に何度も出てきました。息子からの説明(?)は、
「とにかく面倒くさい。どうでもいい。無理なものは無理。」
という非常にシンプルなものでした。
週に1〜2度覚醒して語り出すことがあるので、その発言をつなぎ合わせて、何となく考えを推測してました。
息子の発言のピースをつなげあわせて、私なりに理解していた『不登校の理由』
- 家庭環境がが悪かった(事情は伏せます)ために、息子の気力が削られた
- 好き嫌いがはっきりしてきた。納得できないものはやりたくない。
- 学校の勉強は、何の役に立つのかわからないから嫌い
- ゲームは楽しいから好き
- 人と関わる際の線引きがわからないから全捨てで別にいい
- ずっと学校に行かないと、高校受験がやってくるのでそれも嫌。一番コスパの良い道に行きたいけど、コスト(労力)はできればほぼゼロがいい。いろんな選択肢の中で、結論を出せずにモラトリアム。
- 無試験で入れる高校に行く手もあるけど、結局受験勉強頑張らないといけないなら、それも嫌
- 学校に戻って受験を避けるにしても、学校の勉強が既にもう追いつけないレベル。無理ならはじめから頑張りたくない。
- まだやりたいことはわからないから、やりたくないことを勉強しに無賃金で高校に行くならば、バイトして給料もらった方が有意義では?
家庭環境は確かに色々ありまして、私も「はい。これは終わりですね」と明確に見える出来事があり、家族は2人(私と息子)という認識で落ち着きました。
そして、大変穏やかに生活し始めて3ヶ月ほど
息子は結構元気だし、割と平和だし、1ステージ抜けたような気がする。
でも、登校する気がまだなさそうだし、登校しないで別の道に進みたいという様子もないし、外にも出たがらない。どういう状況なのかな〜?
そう思っていた矢先に、いろいろな偶然が重なって、今回幼稚園の時の息子の親友/私のママ友家族と、海沿いのビーチハウスで過ごすことになりました。
私にとってはごくわずかの貴重なママ友であり、息子が唯一親友だという子なのですが、引っ越してしまったため頻繁には会えない?ので、会える機会はとても貴重で、久しぶりでした。
友達との会話で癒された結果、話し始めた具体的な状況
子ども同士の会話は、まったく聞いていないのでわからない(私は私でおしゃべりに夢中だった 笑)のですが、帰宅してから饒舌にお話しするようになったので、
おそらく「自分が思っている葛藤を、そのお友達も思っていた」という何らかの癒しが得られたのだと思います。
またゲーム生活するうちに閉じてしまうかもしれないけど、心を開いて話すという時間は、息子にとってはものすごくレア。
「0」だと私も不安で絶望してしまうけれど、「1」があることのありがたさ( ᵒ̴̶̷̥́ ·̫ ᵒ̴̶̷̣̥̀ )ウルウル
息子の『ぼくが学校に行くの辞めたワケ』
前提として、人が何かを「嫌だ」と思って逃げる理由は、とても複合的だと思います。自分が何かを嫌な理由も1つではないですよね。だから、
その上で、息子との会話を記録します。
話を聞いていてハイライトの部分は、思い込みの強さを感じた部分です。
人のちょっとした仕草から、その人が何を不快に思っているかがわかってしまう
ぼくは、人のちょっとした仕草から、その人が何を不快に思っているかがわかってしまうから、次に何が起こるか見えてしまう。
虎のしっぽ?が踏まれると、先生は立場上クラス全員を怒らざるを得ないから、自分にも火の粉がかかる
それが嫌だから
- 無自覚にしっぽを踏みそうな奴をなだめたり
- こっそり「もうやめとけ」というサインを出したり
- 休み時間にガス抜きしたり
虎の尾の踏まれ予防に動き回らなくてはいけない?
そういう風に状況が見えてるやつが、自分以外にほとんどいないから、その仕事は自分が受け持たざるを得ない。
自分にだけ見えている幽霊がいて、その幽霊を踏みに行ってるやつがいる感覚だ。
また、自分がそうやって予防的に動いていることが周りに悟られると、押し付けがましくなって友達関係に影響するから
「自分はまったく気遣いをしてませんよ」というアピールもして、調和を図る必要がある
そこまでしても、あえてガードを突破して虎のしっぽを踏みに行き、
全員に火の粉をかぶせた上で、自分が悪かったとは気づきもせず
今日せんせい怒ってたよね〜 ヘラヘラ
と罪悪感すらないやつもいる。
そういうやつは状況がみえていないから、毎日同じことを繰り返してきて、仕事の終わりが見えないし、罪悪感どころか、人にフォローしてもらっていることの恩義も感じてない。
腹が立つけど、気づかないやつに気づかせるのは無理。
だから、自分は人の目に見えていない仕事を延々とやり続ける羽目になる。
それが疲れ果てるし、面倒くさい。
もはや部長くらいの仕事をしている気分なのに、お金はもらえない。
何のためなのかよくわからない。
しかも、帰り道に必ず誰かが
ねぇ、今日遊べる?
と言い出す。
それを聞くと
「あ〜残業か〜?」とどっと疲れがくる。
誘ってくれる子はいいやつだったりするので、友人関係を続けたいし、断るとクラスでの立ち位置的にもよくない。
だから、どんなに疲れていても「行かなきゃ!」と思って約束する。
仕事の後に残業をして、やっと帰宅したと思ったら、宿題やら食事やらお風呂、やっとリラックスすると思ったら寝る時間すぎてて、あっという間に朝が来る。
控えめに言って地獄。
お金ももらえない上に、むしろお金(学費)を払って、ブラック企業の仕事をしているに等しい。
「馬鹿らしい。もうやってられない。」と思って、行くのやめた。
不登校ではない子も気遣い疲れはあるみたい
お友達は、元気に登校している子だけれども、繊細なタイプ。
繊細さの解像度が近いのか、息子の気持ちもわかってくれるようだし、息子は彼の気持ちがとてもわかると言う。
その子も、学校では気遣い紳士をしており、先生が怒った日には、
「先生がそのままの状態で家に帰ると気分が悪いだろうし、かわいそう」
と、さりげなく最後まで教室に残り、先生のガス抜きまでやっているらしい?、
先生にとても好かれており、学校にはとても馴染んでいるけれども
繊細な気遣いをしているので、下校時には疲れ果てており、
放課後には、学校の友だちとはなるべく絡まないようにしているそう?
思春期の繊細君は、報われないブラック企業の中間管理職の気持ち。ママ友界隈と似ている。
私が想像していたものとだいぶ違う背景だったけれど、2人のパーソナリティを知っている上で、「言われてみれば、なるほどね」と腑に落ちる内容だった。
繊細な子ども達は、ブラック企業の中間管理職のような気持ちなのね
私自身は、歳を取って、自然と自分にできる気遣いの総量が減ったので、疲れ果てることはなくなったけれど、同じような疲れを感じていた記憶がある。
「ママ友」という「同じ年の子どものママであること以外何の共通点もない前提の多種多様な人々の集まり」の中で、自分が感じていた疲れとすごく似ている性質のものだと思った。
つい最近まで感じていた疲れ。
子供が幼稚園〜小学校のうちは、子どもの教育/友人関係のために、ママ友(子どもと一緒に出かけてくれる子とその保護者)がいた方が良いのは事実。
子どもを育てる上で、いかに孤独にならないか(孤立しないか)は重要なテーマだから、自分の方を調整して、モヤモヤを飲み込み、コミュニティに所属し続ける努力が必要なのは確か。
ただ、「ママ友界隈」というのは、時限的コミュニティで、子どもが成長して自立していくに従って、自然消滅します。
私は、子どもが中学生になって、気づいたらもう自然消滅(卒業)していて、疲れることは皆無になりました?
子どもたちにとっての学校も時限的で、多様なコミュニティ。ママ友界隈と同じような感じなのだろうなと。
職場でもモヤモヤはありますが「お金のために働いている」という大前提がなく、完全に資本主義から隔絶されているという点で、特殊なコミュニティなんですよね。
大人の視座から見れば、「3年間という時限のついた学校期間は、自分の方を調整して、もやもやを飲み込んで適応する」という一生使える忍者技をトレーニングできる時期。
でも、子どもの視座から見れば、「なんだこの意味のわからないモヤモヤは!?不要じゃないか!?」と思ってしまうのは自然かなという気もしました。
現状把握
思い込みの強さは、思春期でブーストされている
息子の話(「人のちょっとした仕草から、その人が何を不快に思っているかがわかってしまう」項目)を聞いて、特に青ハイライトにした部分は、思い込みがとても強いなと思いました。
自分だけが特別に気付き、自分だけが特別に疲れている。
ぼくは特別なのだ!
30年位前の遠い記憶、私も中学生の時は、今では思い出せないほど些細なことを大事件のように捉えていたし、今よりずっと繊細で疲れ果てており、やはり同じように
「自分は特別」「自分だけ・・・」って思っていました(笑)
私の兄弟も皆そんなステージがあったし、思春期当時の話を同級生とすることがあるのだけど、みんな自分が特別だと思っていた(笑)
自己形成期に、「自分だけ特別」と思うのは、当たり前の現象よねと。
コロナ世代にとって、「学校」という場所はオプショナルな前提
私自身、同じような特別感と疲れを感じていたのに、学校には通い続けてました。
なぜ不登校にならなかったかを考えると、単に「そういうオプションがあるって知らなかった」だけだと思う。
自分が子どもの頃は、不登校という言葉もなかったし、学校に行かないというコンセプトが身近にはなかったから、「行くべきか」を考えることもなかった。
今の子達は、コロナで学校は大人の都合で長期間おやすみになり、オンラインになったりしたから
「学校は、あったりなかったりするもの。オンラインも可」という前提で生きている。
だから「いくべきかどうか」を考えてしまうチョイスがあるのは、とても大きな背景としてある。
時限付きのモヤモヤコミュニティから逃げずに、ストレスをやり過ごすワザ:ガス抜き力
「自分だけ・・・」という視界を少し広げて「もしかしたらみんなも」と思えるようになれば、大分楽になるのだと思います。
幼稚園の時からのお友達と今回話して、きっとそのような気分がUPしたから、今機嫌よく元気になっているのだと思う。
私が、学校コミュニティや疲れるママ友コミュニティをサバイブできたのは、
私と同じ疲れを感じている=「気が合う/価値観が合う」極々少数の友達に出会えたからに他ならないと思う。
「やっぱこれって疲れるよね?おかしいよね?」というガス抜きを共にしながら、
話を聞いてくれる優しい人がいた。
どうしてそういう話がその人達とできるようになったのか、振り返って考えても、
「偶然/奇跡」でしかない。
お互いに特に何かを頑張ったわけでもなく、
- たまたま同じ時に同じ場所にいた
- たまたま何か話した時に「同じこと思ってる?」とどちらかが気づいた
- 他に共通点はあまりなく、むしろ皆全く違うタイプの人間
完全に奇跡だったら待つしかないですが、奇跡が起こる条件もあると思う。
どうスモールステップで、「奇跡が起こるかもしれない方向」に持っていけるか?を考えたい。
ガス抜き力を育てるスモールステップ
今の息子の状態で「ガス抜きができるようになればいい」という高めボールのアドバイスは、何の役にも立たない。
いきなりそんな難易度の高いことがもしできるならば、すでにできているからです。
ガス抜き力には何が必要なのか、スモールステップを考えてみました。
- 観察力
「同じ感覚を持っていそうな人/批判せずに話を聞いてくれそうな人」の存在に気づく - 聞く力
他の人のモヤモヤを聞いてみて、その人の意見を「なるほど、もっともだなー」と納得する - 自信
「もやもやを持っている人は他にもおり、その意見は正当」ということに気付き、ということは「自分のもやもやも正当では?」と少し自信を持つ - 自己開示力
人を遠ざけるほど過剰でなく、かといって怯えすぎないよう、ちょうどいい自己開示をする - 価値観の合う人/人の価値観を尊重する誠意のある人
「やっぱり、自分のもやもやは正当な意見だったのか」と納得できる
これの繰り返し。
やっぱり人が大事
5つのステップを考えると、やっぱり人と接して人に揉まれることが必要だと気付きます。
成長するには人との接触が必要だけど、人と接触するには成長が必要。
卵が先か、鶏が先か?
親の方で頭の中を整理して、大事なことを意識して接するのは大切だけど、
結局、なんとなく、本人の嫌がらない人との接触を重ねて、なんとなく良い方向に向かうことを祈ることしか親にはできないかなって
なんとなく、のらりくらりで幸せな環境づくり、がんばります。
課題解決型ニューロダイバーシティ児の子育ての心得を書いています?